柔の道

嘉納と講道館:柔術から柔道へ

柔道が存在するのは、嘉納治五郎が柔術を激しく稽古しても安全なものにしたからだ。一八八二年、彼は自ら学んだ古い接近戦の諸流派を、稽古者が怪我をせずに全力で行える武術へと作り直した。そして、このただ一つの改革こそ、柔道がその母胎となった流派よりも長く生き延びた理由である。嘉納は、改革者らしからぬ改革者だった。一八六〇年に裕福な家に生まれた彼は、小柄で勉学好きであり、自らの述懐によれば、より大きな相手に対処する術を探しに行くほどには、若い頃にいじめられていた。

一八九二年頃の嘉納治五郎の肖像
一八九二年頃の嘉納治五郎。講道館を創設してからおよそ十年後。ウィキメディア・コモンズ、CC BY-SA 4.0。

滅びゆく流派の門人

嘉納が柔術に足を踏み入れたのは遅く、その世界にとってはよそ者としてだった。彼はまず天神真楊流で、それがまだ重んじられていた最後の年月に自らの技を身につけた師たちのもとで稽古し、のちに、投げと崩しを中心に据えた流派である起倒流で学んだ。時は一八七〇年代、古い流派は衰えつつあった。明治の日本は急速に近代化を進め、新政府は流派を担ってきた武士階級を解体しつつあり、一人の青年が、自らの周囲で生きた伝統が細っていくさまを目の当たりにできる時代だった。嘉納は、消えてしまうのを恐れる何かを学ぶときのやり方で、それを学んだ。

嘉納の一八八三年の起倒流免状
一八八三年付の起倒流の免状。起倒流は、嘉納がそこから柔道を築き上げる前に稽古した二つの古い流派の一つだった。講道館、ウィキメディア・コモンズ経由、パブリックドメイン。

嘉納はいかにして柔道を全力で稽古できるものにしたか

一八八二年、二十二歳のとき、彼は九人の弟子を、東京の仏教寺院である永昌寺の一室、十二畳の畳の上へと迎え入れた。彼はその場所を、道を修める学び舎という意味で講道館と名づけた。そこで彼が教えたものは、自ら稽古してきた諸流派から寄せ集められていたが、ただ一つの発想を軸に再編されていた。稽古するには危険すぎる技を取り除き、抵抗する相手に対して全速で使える技を残し、それを生の稽古で反復する、という発想だ。彼はこの自由な稽古を乱取りと呼び、それが静かな革命だった。最も危険な当身と関節技は、闘うためではなく学ぶための、あらかじめ定められた形として、形(かた)に分けて残した。残ったものは、稽古する者を壊すことなく、毎日、激しく稽古できた。

彼はその全体を、柔らかな道という意味で柔道と名づけ、その下に二つの原理を据えた。力を最も効率よく使うことを説く精力善用と、互いに利し栄えることを説く自他共栄である。彼は古い武術を、戦いであると同時に教育でもあるものとして扱った。それは、稽古する者に戦い方を教えるだけでなく、その人間を築き上げるための修練だった。

名を打ち立てた大会

柔道がいかにしてその地位を勝ち取ったかについて世に流布する物語は、ただ一つの出来事を軸に回っている。一八八六年頃に警視庁が主催したとされる武術大会で、講道館の面々が既存の柔術諸流派と対戦し、ほぼすべての試合に勝って、どの武術が優れているかという問いに決着をつけた、という話だ。それに類することは実際に起きたし、嘉納の弟子たちは古い流派を相手によく戦い、それが警察による柔道の採用を後押しした。だが、あの鮮やかで決定的な版は、記録というよりも伝説に近い。講道館自身がそれについての明確な記録を残しておらず、現存する資料は食い違い、完全勝利という整った物語は語り継がれるうちに膨らんでいった。確かなのは、その結末のほうだ。数年のうちに、柔道は近代日本の諸制度が選ぶ武術となり、その母胎となった流派は、その背後で色褪せはじめた。

その勝利があったからこそ、この武術はそもそも旅立てるだけの生命を保った。それが日本を離れたとき、それは嘉納の弟子たちの手に委ねられて離れていき、彼の体系と、彼がそれに与えた名を携えていた。その弟子の一人、家にとどまろうとしない落ち着かぬ若き格闘家こそ、物語がブラジルへと転じる地点である。

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